歴史
History
1200
1212年(建暦2年)
桜田霞ヶ関の地に、真色山・常楽寺(光明寺の旧称)が天台宗の僧・了栄によって創建される。一説によれば、1250年(建長2年)の創建。
1226年(嘉禄2年)
関東滞在中の親鸞聖人の教化を縁に、了栄は天台宗から浄土真宗に宗旨を改める。
1500
1540年(天文9年)
疫病の流行に際し、常楽寺の本尊・阿弥陀如来像が光明を放って人々を救ったと信じられた ことから、常楽寺を改め「光明寺」と称することになる。
1590年(天正18年)
徳川家康の江戸入府の折、住職・証高(第17世)が境内の紅梅に古歌を添えて献上する。家康は大いに喜び、「開運梅」と称せよ、と命じる。その後、家康から粟田口国吉作の太刀を下賜される。
1600
1604年(慶長9年)
江戸城を造営するため、寺領を元々の霞ヶ関の地より、現在の西ノ久保に移す。
1645年(正保2年)
徳川三代将軍・家光が光明寺を訪問した折、祖父の家康が光明寺の梅を喜んだという故事にちなみ、山号を、真色山から「梅上山」に改めるよう命じる。
1700
1772年(明和9年)
明和の大火によって、本堂庫裏等が焼失する。このとき、境内へ避難してきた人々が数多く焼死する。当時の住職・証山(第24世)は焼死者を偲び、「焼死人の墓」を建立した。(神谷町光明寺境内に現存)
1792年(寛政4年)
文人僧・雲室(第26世)、光明寺へ入寺する。
徳川家康筆 日課念仏
「南無阿弥陀仏」の名号を六段に書いたもの。徳川家康(1542〜1616年)が,さる高僧から一日に念仏六万遍を唱えるように勧められたといわれる。
市川鶴鳴の墓
市川鶴鳴は江戸後期の漢学者、儒学者。本居宜長との論争でも知られる。光明寺住職と雲室と知己であったため、光明寺に葬られた。なお、永井荷風は鶴鳴の墓を何度も訪れている(『断腸亭日乗』)。
井伊直幸(なおひで)書状
江戸幕府の大老・井伊直幸の光明寺宛の書状。井伊直幸は彦根藩第13代藩主で、大老在任期間は1784年(天明4年)〜1787年(同7年)とされる。
梵鐘
1678年に柱状された梵鐘。光明寺の当時の住所が刻まれている
焼死人の墓
2010年に港区指定文化財「旧跡」となる。