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境内案内

Temple Grounds

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​本堂

神谷町光明寺の本堂は、境内の階段をあがって二階にあります。浄土真宗のお寺の本堂は、昔から「仏教の教えを学ぶ道場(聞法の道場)」と言われてきました。どうぞ、どなたでも、お参りください。

​テラス

本堂前のテラスにはイスやテーブルを設置し、お参りの皆さまにお休みいただけます。憩いの場として平日には近隣のオフィスで働く方々もお昼休みに集まってくつろいでおられます。

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​書院

和室ですが、椅子のご用意もございます。ご法要の時の控室などにご利用いただけます。

​会館

小規模のご葬儀やお斎の会場としてご利用いただけます。

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​常楽堂

歴代住職の遺骨や、納骨を希望された門徒(檀家)の方々の遺骨が納められています。「ほとけさまのもとで、みなさんと一緒にお会いしましょう」という願いから建立された永代納骨堂です。

​西久保幼稚園の碑

終戦後の昭和24年、地域からの要請もあり、境内に西久保幼稚園が設立されました。多くの卒園生を送り出しましたが、昭和42年、現本堂建設工事のため、その幕を降ろすこととなりました。現在は、幼稚園の事跡を伝える石碑(富山県の彫刻家・岩城信嘉氏の作)が正門脇に建っています。

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梵鐘

延宝6(1678)年鋳造の梵鐘。第二次世界大戦の際に供出したのですが、平成8(1996)年、幸運にも当寺へ里帰りしました。現在、鐘楼建設を計画中。

板碑

板碑とは、墓前に立てる板状の石造卒塔婆です。光明寺の板碑は、阿弥陀三尊種子板碑と呼ばれるもので、南北朝初期の貞和4年(1348)の年号があり、保存状態の良い板碑として港区の文化財にも指定されています。

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水鉢

江戸時代末期の天保3年(1832)年に和泉屋重次郎が寄進した石嗽鉢です。石鉢には「梅上山」の山号が彫られており、光明寺では「梅上山」の文字は、この石鉢の書体をいつも利用しています。なお、石嗽鉢とは、寺院などに参詣する前に、水で口をそそぐために使われた鉢のことです。

焼死人の墓

「焼死人の墓」は、江戸時代中期、明和9年(1772)2月29日に発生した、いわゆる「目黒行人坂火事」の犠牲者を偲ぶ墓石です。この火事は目黒から千住まで焼き尽くす大火であったと伝えられます。 光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当寺の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。火災の惨状を現在に伝える貴重な墓石であるとして、港区の文化財にも指定されています。

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市川鶴鳴の墓

江戸後期の漢学者・儒学者、市川鶴鳴の墓。永井荷風もしばしば参詣しました。

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