From 喜怒哀楽

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某月某日

日付が変わって、いよいよ本日の誰そ彼 Vol.22 開催によせて、入場時配布のフリーペーパーに書いた文章を転載する。

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『From 喜怒哀楽』 - 誰そ彼 Vol.22 開催によせて (文・遠藤卓也)

いきなりですが、「世間」という言葉の意味をご存知ですか?

元々は仏教用語であり、日本ではその後に一般名化し「この世」「世の中」「社会」のことを表す言葉ですが
単純に「社会」という言葉とイコールで括れない性質があるというのはなんとなくわかります。

例えば、学校はひとつの「社会」だと思いますが、個人の感覚でいくと学校全体と関わっているというよりは
担任の先生や仲の良いクラスメイトから形成される"輪"と関わっているという感じです。
その、一言で定義出来ない集合を言い表す言葉として「世間」は有用なのではないでしょうか。
考えようによっては、家族もひとつの世間ですし、職場や学校でも特定の集合においては世間といえます。
今日誰そ彼に一緒に遊びにきた友人同志でも、ひとつの世間を形成していると思えませんか?

人は多かれ少なかれ、自分が参加できる世間をいくつか持ち、その往来で毎日の暮らしが成り立っていると考えられます。

そんな「世間」のレイヤーで自分の日々を改めて見てみると、それぞれの「世間」の印象が異なる事がわかります。
また、役割もそれぞれであり、優先順位さえあります。

会社や学校の「世間」に参加するのは自由度が低くてメンドくさいな、とか
家族って当たり前過ぎるけど、一番優先すべき「世間」だな、とか
好きなあの子の居る「世間」に参加する時はワクワクして楽しいな、とか
世間に参加する事は、良かれ悪かれ刺激である事は確かで
その中で、喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しんだりしている自分を見つけられます。

光明寺のお坊さんの松本圭介くんがインド留学から帰って来た時に、「お寺の役割」について話しました。
彼は、お墓を守ったりご法事を行なったり相談ごとにのったりと、いわゆる檀家さんという「家族単位」に対して担う役割があると共に、
そうではない「個人単位」に対しても心の豊かさや安心を提供していきたいと言っていました。

それを聞いた時に、お寺が誰かにとっての「世間」になれたらいいのかな、と思いました。
光明寺を全然知らない人でも、気軽に「世間」を増やせるような、きっかけ作りの窓口を準備していく事が、
「個人単位」に提供できるお寺の役割のひとつなのではないかという話をしました。

そういった意味では、光明寺ではテラスを開放してお坊さんがお茶を出したり、ヨガ教室がおこなわれたり、
この誰そ彼もあったりと既にいくつかの「世間」の用意があります。

今日はこの誰そ彼という「世間」に顔を出してくれた皆さんが、居心地良く思ったり、
ここで見つけたご縁でもって新たな「世間」を形成したり、皆さんの日々において
美しい感情を喚起するきっかけの「世間」となれていたらいいな、と思うのです。

本日は、お寺の音楽会 誰そ彼へようこそお参りくださいました。

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このページは、管理者が2011年10月22日 02:36に書いたブログ記事です。

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